第二章  其の弐



世界は絶対唯一の神、破壊と創造を象徴とする『乙姫』(おとひめ)によって均衡を保っている。
その世界の名前を九羅津(くらつ)といい、眞(しん)国、呉(ご)国、采(さい)国、鳶(え
ん)国、庚(こう)国、趙(ちょう)国、屑(せつ)国、祇(ぎ)国、斉(せい)国の九つの
国から構成されていた。
歴史、国土の大きさ、人種などは地球と同じく多種多様で、ちなみに乙姫がいる場所は鳶国に
当たるらしい。
赤茶けた地面に大雑把な世界地図を描いてもらうと、鳶国は海に面していない内陸部に位置し
ていた。
上手く切り分け損ねたピザのような地図を凝視して、大体の地理を頭の中に叩き込む。
一度に大量の知識を覚えるのは大変だが、本々勉強自体は嫌いではなかったため、苦にならな
い。
内陸部に位置している鳶国は、地球で例えるところの冷帯と熱帯に挟まれた温帯の中にあり、
一年を通して気候は比較的温暖で、驚いたことに、日本のようにはっきりとした四季もあると
いう。
先程安曇が『無理なく溶け込める』と言ったのには、こういった事情があったからということ
らしい。
そして今、乙姫と安曇が寛いでいる湖畔は、鳶国ので最も小さな湖―――――『笙寿(しょう
じゅ)湖』で、始まりの町と呼ばれる嵯々巳に最も近い人里が、この深い森の外にあると教え
てもらった。


「始まりの町って何?」


素朴な疑問に、安曇は嫌な顔一つせず懇切丁寧に説明してくれた。


「私が何者かということも、『姫神子』が持つ意味も、全てはここから始まります。少し複雑で
すが、御子ならば大事ないと思いますので、包み隠さずありのままをお話し致しましょう」


乙姫の今の服装は、かなりアレンジされてはいるが、あえて言うならば『京劇風』である。
和服のように数枚の単を重ね、その重ね目の色をアクセントにしており、その上には、裾に金
糸で細かな刺繍を施した深緑の貫頭衣を着込んでいた。
下半身は、デニム生地のような物で作られた薄茶色の膝丈ズボンだ。
それと、揃いの皮で作られたベルトとブーツ。
見た目も良いが、特に機能性に優れたデザインを、乙姫はとても気に入っている。
両手を広げれば白い蝶のようなその衣装の袖を、胡座をかいた脚の中に収納し、乙姫は本格的
に聞く体制にをとった。


「九羅津で信仰されている主な宗教の最高神が『乙姫』であることは、すでにお話ししたと思
います」


「あぁ、俺と同じ漢字で訓読みの方だろ?なんか日本昔話を思い出しちゃうんだけど、それと
は別物だよな?」

「それもそうだとは言い切れないのです。私もあちらの世界に行って驚きました。昔話の方で
は海の中に竜宮城がありましたが、九羅津では竜宮城は天空にあります。ある日、一人の少女
が嵯々巳を通りかかった時、乙姫の配下である白い大蛇が傷ついて身動きが取れなくなってい
ました。不憫に思った少女は大蛇を手厚く看護し、結果、全快した大蛇は乙姫が待つ天空へと
帰って行くのです。ここからが、昔話と違いますね。数日後に乙姫自らが地上に降り、その少
女を祝福なさいます。そして心から信頼するに値した少女に、乙姫の地上での代理人として、
『姫神子』という地位をお与えになりました。それが、初代の姫神子という訳です。ちなみに
『始まりの地』というのは、乙姫と姫神子による体制の基盤ができ、そこから今日に至るまで
その体制が続いていることから安直に呼ばれるようになった、という訳です。」

「それって神話なのか?」

「人の間ではそういうことになっていますが、私達にとってはまごうことなき事実です」

「ふ〜ん…………あ、でも、あれ?姫神子になるのは九羅津の人間なんだろ?なんで異世界人
の俺を、精霊さんが『姫神子』って呼ぶんだ?」

「いえ、御子はこちらの人間ですよ」


本日二度目の爆弾発言に、乙姫はまたしても石化した。


「…………は?」

「御子はこちら側の人間です。正確には半分ですが」

「ちょ、ちょっと待って!何それ!?」


『聞いてないよ!』と乙姫が抗議すると、『申し訳ございません。言っていませんでしたから』
とかわされた。
どういうことなのだろう。
父親は確かに柳沢の前頭首で、あちらの人間だった。
そうすると、安曇の言い分では必然的に母親がこちらの人間ということになるのだが、つい先
程、ここが生まれ育った世界ではないということを認めさせられたばかりで。
いきなり『母親が九羅津の人間だ』と言われても、いくらなんでも、許容量というものがある。
つまり、なんだ。
もともと乙姫は、そう遠くないうちにこちらに来る可能性があったということか。
『誓約』がどうのとも言っていたし、それもかなり高い確率で。


「御母堂は宇都木様という、先代の姫神子に当たる方です。やむおえない事情であちらの世界
に滞在しておりましたが、そこで御子の御父堂と出会い、御子を身ごもまれました。残念なが
ら御子をお産みになった後鬼籍の人と成りましたが、宇都木様と御子の血の繋がりは疑いよう
がありません」


安曇の瞳の奥に、過去確かにあった遠い日の思い出が蘇っているような気がして、乙姫は言葉
に詰まった。


「御子は本当に宇都木様の全てを受け継いでおいでです。容姿も、気質も何もかも」

「…………そんなに似てるのか?」

「それはもう」


安曇が最高の笑顔を浮かべた。


「宇都木様がご幼少のみぎりより、行動を共にしてきました私が言うのですから間違いありま
せん」

「ご幼少のみぎりって…………安曇、お前何歳なんだよ?」

「今年で九百三十七歳になります」

「きゅ…………っ!?」


あまりの驚きに、叫び声も出ない。
人間の平均寿命は八十歳前後。
それを遥かに超越する年数を重ね、このように若々しい姿を保っている人間などいるはずがな
い。
乙姫の心中を察したのか、安曇が目元を和ませた。


「そうは見えないでしょう?」

「う、うん、いや、まぁ…………ね。ちなみに冗談では」

「ありません。私は神子守なのです」

「神子守?」

「稀有で尊い存在である姫神子を守るために付けられた、精霊ではなく人間側の護衛のことで
す。そのため、老いることはありません。もちろん死ぬことも…………。これがその印です」


そう言って左袖を捲くると、安曇の腕に巻き付くように、黒い蔦のような刺青が刻まれていた。
目をみはった乙姫は、その部分にそっと触れる。
まるで鎖で拘束されているかのようなその黒い部分を、指先でそっとなぞった。
もしかしたら、今から乙姫が言うことは失礼かもしれないが。


「なんかちょっと、気味が悪い」


安曇は肩を竦めた。


「気分がいいものではないことは確かですね。これは呪いですから」

「の、呪い?」


その物騒な単語に、乙姫の声が半分裏返る。


「こっちの世界にも呪いなんてあるんだ?」

「もちろんです。それはもう強烈なものが。ちなみにこれは、私が神子守に就任した時に乙姫
に施されました。姫神子を守る役目を放棄すると、肉を焼き、骨を溶かし、神子守の特殊能力
で死ぬこともできず、生きたまま死ぬ程の苦痛を味わい続けるというものです」

「うわぁー…………」


乙姫は、自分の腕にそんなものはないにも関わらず、安曇の腕の蔦模様の刺青がある箇所をも
う片方の手で撫でた。
自分と同じ字を持つ神は、思いの他過激な性格の持ち主のようだ。


「…………その役目、辛いと思ったことは?」

「ない、と言えば嘘になります。しかし、乙姫が姫神子に『代理人』という立場をお与えにな
ったのと同じく、一生を姫神子に注ぐことこそ、私の使命であり、存在理由です。私はこの役
目を大変誇りに思っておりますから」


『だからむしろ幸せだ』と、安曇は笑う。
居た堪れなくなって、乙姫は視線を逸らした。


「そんな立派な人間が、なんだって俺なんかのお守りなんだろうな」


見た目も中身も未発達で、我侭ばかり言って手を焼かせて、姫神子としての知識ばかりか九羅
津の一般常識さえもわからない、異世界育ちの子供。
姫神子を守るためだけに時間の枠から外れている安曇に対して、それは酷い冒涜を犯している
ように思えてならない。
安曇は苦笑した。


「私はそうは思いませんよ。今まで姫神子は女性でしたから、私には小さな弟ができたような
心持ちでした」


予想だにしなかった言葉に、乙姫は顔を上げる。


「…………弟?」

「頼って頂くことが、存外、嬉しかったのです。あらかじめ宇都木様から御子のことを言い付
かっておりましたし、それに歴代の姫神子はお子様をお産みになりませんでしたから、そのせ
いもあり、感慨深いものがあったのかもしれません。」

「安曇…………」

「事前の充分な説明もなしに勝手なことをして、申し訳ありません。しかし、あの時は御子を
あのまま柳沢に置いておくことなどできなかったのです」

『不自由なこともあると思いますが、少なくとも向こうでの生活よりはマシかと思いまして。
ただ、御子が姫神子の役目を厭うのでしたら戻りましょうか?』と問われ、乙姫は首を傾げた。


「戻れんの?」

「えぇ、今すぐには無理ですが。御子が望まれるのでしたら」


異世界トリップの定説では、元の世界に戻ることは不可能なはずなのに。
そのことに驚きはしたものの、乙姫はすぐに、半分呆れたような笑みを浮かべた。


「俺があの家に戻ることを望んでるように見えるって、そういうこと言いたいんだ?」


安曇が意外そうな顔をした。


「いえ、そういう訳ではありません…………では姫神子の件、引き受けて下さると?」

「引き受けるも何も、俺ってそうなんだろ?」


何を言っているんだとばかりに言い切ると、わずかに逡巡した安曇は確かな意思を持って頷い
た。


「はい。御子はまぎれもなく、当代の姫神子です」


そう言ってもらい、ようやく、乙姫は九羅津に飛ばされてから緊張しっぱなしだった糸を緩め
た。
自分はこの世界にあっていいのだという、確信。
言うなれば、戸籍のようなものだ。


「頭首なんてクソ喰らえって感じだったけど、今は俺、凄く嬉しいんだ。ありがとな、安曇。
この世界に連れて来てくれて」


値千金、最高の笑顔。
この状態の乙姫に逆らえる人間など、この世にはいない。
あちらの世界にいる時に、笑顔全開でなくいつも気を張った顔付きをしていたのは、正解だっ
たのかもしれなかった。
きっと、違う意味で危険だ。
そんなことを考えながら、安曇は体当たりに近い形で抱きついた乙姫を難なく受け止めた。
それと同時に、この可愛らしい弟同然の姫神子を、けして悲しませはしないと心に誓う。


「こちらこそ、ありがとうございます。あぁ、それと、肝心なことを忘れていました」


『肝心なこと』と聞いて、乙姫は身体を離した。


「確かここに入れておいたはずなのですが…………あぁ、ありました」


安曇が懐を探って取り出した物に、乙姫の目は釘付けになる。
手の平の上に乗っていた物、それは小さな眼鏡ケースのようだった。


「何それ?」

「カラーコンタクトです」


某有名レンズ会社の名前と商品名が記されているケースをまじまじと見詰め、乙姫は『こんな
物がなぜここに?』と小さく唸った。
色は黒。


「それが?」

「御子にはこれを使用して頂きたいのです。御子のその瞳の色は姫神子の固有色ですから、人
込みに出るとなると、あまりにも目立ちます。それと、注文が多いようで申し訳ないのですが、
姫神子は自分が姫神子だと知られてはいけないという暗黙の了解がありますので、その辺りも
ご了承下さい」


乙姫は不吉なものを感じた。


「…………姫神子ってそんなに危ない仕事なのか?」

「いえ、危ないと言いますか…………命に危険が及ぶという意味ではありません。ただ、今ま
での経験上騒動に巻き込まれるという予想は容易に立てられますので、その用心です」

「ちなみに予備をたくさん買い込んであったり?」

「もちろんです」


『存分に壊して下さい』という、どこか的外れな台詞に、乙姫は苦笑いせざるをえなかった。

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