第二章  其の壱



波に揺られているような不思議な浮遊感と少しの肌寒さで目が覚めた。
一番最初に目に入ったのは、どこまでも真っ青な、突き抜ける空だった。
記憶している自分の瞳の色とは違う色に、改めて『空はこんな色だったのか』と感心する。
太陽の下を大手を振って歩くことができない身では、一生自分の目で直に見れるはずがないと
思っていた。
それはとても綺麗だ。
白と青のコントラストが印象的で、風に吹かれてその白い雲が形を変えていく様には、感動す
ら覚える。
どういう訳かわからないが、欠陥だらけの目は痛みと眩しさを訴えない。
こうして空を見上げていても、むしろ以前より調子が良いように感じるのは気のせいだろうか。


「な、んで…………?」


掠れていると思い込んでいた声は、意外と明瞭としていた。


「御子、お目覚めですか?」


聞き覚えがある声が頭上から降ってきて、乙姫は声がした方向に視線をやった。
小豆色の髪と瞳。
着物姿ではなく、日中の伝統衣装が融合したような服装をしているが、彼は安曇だった。
ほっと息をつき、安曇の手を借りて起き上がる。
どうやら乙姫は水の中に浸かっていたらしい
温かい膜にでも包まれているかのように、寒さは感じなかった。


「…………ここは?」


不安げに視線を走らせた乙姫に、安曇が安心させるように笑って見せる。


「忌まわしいあの家の敷地外であることは確かですね」

「じゃあ、本当に…………?」


『外に出られたのか』と目で訴えると、安曇は慈愛に満ちた笑みを深めた。


「ここには、あなたを縛り付けるものなどありはしません」

『まさか』とか『信じられない』といった気持ちで一杯だった。
安曇が嘘をつくような人間ではないということは知っているが、頭がついて行かない。
それほど、安曇の言葉は力を持っていた。
半場呆然としながら、乙姫は無言で周囲の情報を得ようと顔を巡らせた。
そこは、静かな湖畔だった。
周囲に民家の影はなく、湖の淵から外側に向かって茂みや低木、高木が広範囲に渡って生育し
ている。
現代日本では徐々に失われ続けている大自然そのものに、乙姫は懐かしいものでも見るように
目を細めた。
ここは、不思議と居心地が良い。
自分がここの一部なのか、それともここが自分の一部なのか。
そのはずがないのに、わかっていても錯覚してしまう程、意識というものが綿密に絡み合って
いた。


「ここって、屋敷からどのくらい離れてるんだ?県内?国内?…………まさか、国外だったり
する?」


濡れた髪から滴り落ちる水滴を拭いもせず、大きな目で怖い程真っ直ぐに人を見詰めてくる乙
姫。
バスローブに似た物を乙姫の肩に掛けた安曇は、困ったかのように苦笑した。


「申し訳ございません。大変言い難いことなのですが、日本ではないのです」

「え、じゃあ外国!?」

「でもありませんね。残念ながら、ここは地球ですらないのですから」


とんでもない爆弾発言に、乙姫は音を立てて石化した。
今何か、許容範囲を軽々と高飛びするようなことを聞いた気がする。


「な、に言って…………あ、冗談か?そうだよな、うん、そうだ」

「困惑するのも当然です。どう説明すればいいのでしょうか…………御子の世界の言葉であえ
て表現するなら、『異世界』と称した方がいいかと思います」

「異世界?だって、それは…………漫画とか小説とかゲームとかの話で、現実には」

「そう仰られましても、この世界にとってはこちらが現実ですから、どうとも…………」


乙姫は心底困り果てている様子の安曇を見上げ、声を荒げた。


「だ、だって俺、本当に何がどうなってるのかわからなくて!いきなり異世界だとか言われた
って、納得なんかできる訳ないじゃんかっ!まぁ確かにこの目のせいで屋敷の外には出られな
かったから、あっちだって俺にとっては異世界も同然だったけど、でもそれとこれとは別問題
で―――――って、あ〜もう自分でも何言ってるのかわからなくなってきた!!」

「心痛、お察し致します」


心痛というよりは乱心だ。
どういう経緯でこうなったのかは理解してはいる。
ソレを自分が望んだといことも、またしかり。
しかし、乙姫が数ある選択肢の中からなぜここに辿り着いてしまったのかがすっぽり抜けてい
る。


「…………そういえば、目の調子はいかがですか?」

「あ、目?」


なんの関係もないように思える台詞に意表を突かれ、乙姫は小首を傾げた。


「それが、医者にも治る見込みがないって診断されてたのに、なんともないんだ。…………で
も、どうして?」

「この湖のおかげです。ここの水は『天上の水』と呼ばれ、澱みのない、最も清らか水として
有名です。そう呼ばれる水には治癒の効果があり、万人に重宝されています。先ほど負われま
した傷も、この水で完全に癒えるでしょう。そのような水が、あちらにありますか?」

「ない、と思うけど…………まさか、それが証拠だとでも言いたいのか?」

「まだ足りないのでしたら…………これでは?」


顔の横を、温かい風が通り抜けていった。
風が全身に纏わり付き、ぶわっと大きく膨張したと思うと、すぐさま全身の水気が蒸発した。
つい先程まで濡れていた髪も一瞬の内に乾き、風に煽られてサラサラと音を立てる。
常識では考えられないことを身をもって体験し、乙姫は目を丸くした。


「…………魔法?」

「少し違います、これは精霊の力を借りて生まれたものですから。あぁ、ほら。御子になら姿
も見えるはずです。それに声も」




―――――くすくす―――――

―――――くすくす―――――




鈴が鳴るような笑い声が、耳の側で聞こえた。


「え、何?」




―――――姫神子殿が『何』と仰った―――――

―――――ほんに可愛らしいお声だこと―――――

―――――当代の姫神子殿はずいぶんと幼く見えるが―――――

―――――しかし、力は絶大―――――

―――――先が楽しみな御子だなぇ―――――

―――――よろしゅうなぁ、若様―――――




リカちゃん人形サイズの半透明な物体が、喋って、動いて、好き勝手に飛び回っていた。


「え、えぇっ!?」


乙姫は慌てて飛び退き、目を白黒させながら人差し指を突き立てた。
彼女達が身をくねらせ、『きゃぁっ』と歓声を上げる。


「な、ななななんか小さいのがいるぞ!ソレなんだよ!?」

「風の精霊です。個体ごとの名前はありませんから、好きにお呼び下さい。彼女達もそう望ん
でおります」

「よ、呼べって言われたって…………うわぁ、こっち来るけど!」

「大丈夫ですよ、我々は御子に危害を加えたりは致しません」


半透明なソレが、ころころと笑いながら目前に迫った。
乙姫は本能的に固く目を瞑った。
すると、得体の知れない柔らかな感触が、額を掠めていった。


「…………え?」


目が合うと、にっこりと微笑みかけられた。
甘い砂糖菓子のようにほわわんと幸せな気分にさせる微笑みに、思わず乙姫も笑い返す。


「でもなんでデコチュー?」

「こちらの世界でも、口付けは親愛の情を表す行為の一つなのです。他に文化や文字にしても
共通項はけして少なくはありませんから、無理なく溶け込めるでしょう。…………信じて頂け
たでしょうか?」

「俺の幻覚幻聴でないのなら。じゃあ、本当にここは柳沢の手が届かない所なんだな?」

「はい、ご安心下さい」


乙姫はほっと胸を撫で下ろした。
しかし、釈然としない思いが胸の奥にずんと溜まり、昇華しきれない澱みを作っているようだ。
『柳沢』から解放されたことは、そりゃあ嬉しい。
安曇の言う『異世界』に連れて来られても、向こうにたいした思い入れもないから、比較的す
んなりと受け入れることもできる。
おまけに、医者も匙を投げた目が不自由でなくなった。
これからは自分のやりたいことができるし、生きたいように生きることができる。
他人に強要されるのではなく、自分自身の選んだ道を進むこともできる。
いいように使われることも、利用されることも、理不尽な仕打ちを受けることもない。
それなのに、指先のささくれのように小さく鋭い痛みを感じるのはなぜなのだろう。
放っておけば際限なく思考の底無し沼に嵌っていくのを、乙姫は大きな深呼吸を一度だけして
阻止した。
なんとなくだが、今はこれ以上考えたくはなかった。


「…………ところで俺、聞きたいことがたくさんあるんだけど」


歳相応の表情と口調で尋ねる乙姫に、安曇は姿勢を正して『はい』と応えた。


「安曇って何者?『姫神子』って何?ここはどういうとこなの?」


矢継ぎ早の質問攻めに、さすがの安曇も返答に窮した。


「当然お話しするのに問題はありませんが、長くなりますよ?」

「構わない。どうせ時間はあるんだろ?」


安曇が満足そうに頷いた。


「お察しの通りです。しかし、その前にお召し変えを致しましょう。こちらの世界でそれは、
下着のようなものなので」

「そ、そういうことは早く言え!」


湯沸し機の如く赤面し、乙姫は両の腕を掻き抱いた。
信頼できる付き人の性格が、実は悪かったのだと思い知らされた瞬間であった。



<<NOVELNEXT>>
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送