第一章  其の弐



乙姫の姿を視界に納めたとたん、彼は絶句した。


「御子…………」

「安曇、閉めろ」


有無を言わさぬ口調に、呆然としていた彼―――――安曇(あずみ)は反射的に障子を閉め、
足早に乙姫の下へと駆けつけた。
上手く身体を動かせない乙姫の代わりに不自然に乱れた着物の合わせを寄せ、青ざめた顔に両
手を当てた安曇は、普段の柔和な表情はどこへやら、いつになく厳しい顔付きになっていた。


「御子、これは一体どういうことなのですか」


乙姫は答えようとして、それが難しいことだと気付いた。
乾いた唇は鉛になってしまったかのように重く、発言すること自体を拒否しているように思え
る。
愉快な話ではないのだから、それも当然と言えば当然だ。
躊躇っていると、先程よりもいささか強い様子で、再び問い質される。


「御子」


乙姫は観念して、安曇にしか聞こえない程度の声の大きさで答えた。


「冬、吾が…………」


それだけで、安曇は全てを理解したらしい。
隠しもせずに舌打ちすると、『少々お持ちください』とだけ言い残し、部屋を出て行った。
ほんの数分で戻ってきた時には、白い湯気を上げる湯を張った桶とタオルを持っていた。
両手を使って起き上がろうとすると、身体中の関節がかつてない程の悲鳴を上げ、その場に崩
れ落ちる。
最悪だったのは下肢だ。
脈打つような鈍く強い痛みを感じ、思わず身体を縮込ませた。


「無理に起き上がらなくとも結構です」


安曇は乙姫の額に貼り付いていた前髪を撫でつけ、痛ましげな視線を向ける。
その優しい感触にうっとりとした乙姫は、その手に無意識に擦り寄った。
小動物のようなその仕草は本来なら微笑ましいというのに、衰弱しきった今の状況では周りの
同情を誘うだけである。
安曇は小豆色の双方を伏せ、もう片方の手で黙って額に湧き出た汗を拭いた。


「…………アレの籍を外しましょう」


重々しい声音に、乙姫はわずかに顔を上げる。


「え?」

「アレの柳沢としての籍を外しましょう。恐れ多くも御頭首に対してこの所業、まさかアレも
無事で済むなどとは思っていますまい。アレにとって最も効果がある制裁でしょうから」


反射的に、乙姫はゆるゆると首を左右に振った。


「それは駄目だ」

「…………御子?」


訝しげに眉を顰めた安曇に、乙姫は焦ってなんとか言葉を紡ごうとした。
不本意でも、必死にならざるをえない。


「それは駄目なんだ。そんなことをしても、なんの解決にもならないからっ」


一度言葉を切り、気負いすることなく真っ直ぐに安曇を見る。


「だから、駄目」

「…………庇い立てするというのですか、あのろくでもない男を」

「違う、そうじゃない!そうじゃないけど、でも…………きっと冬吾は、目的を達成するまで
何度だって這い上がってくる。アイツの『頭首』への執着は並じゃないから、それこそ、何度
だって。籍を外すのは、かえって冬吾を煽ることにしかならない」

「では一体どうすると?まさか御子だけが我慢すればいいなどという、安直な自己犠牲論を持
ち出す気ですか?『自己犠牲』、結構な言葉ですが、それもいき過ぎれば必ず周囲に皺寄せがい
くものです。あなたが悲しむことで、あなたを気にかける人間をも悲しませる結果になるとい
うことをお忘れではありませんか?」


静かに激昂する安曇は、どうやら冬吾に制裁を加えなければ気が済まないらしい。
それが簡単にできるものなら、迷うことなくやっている。


「…………だって、心臓が握り潰されるかと思う程辛かったんだ」

「何がです」

「冬吾が養子だっていうのは、一族の人間なら誰でも知ってる。だからアイツはいつだって余
所者扱いで、そのくせ親の七光りで腫れ物を扱うみたいにちやほやされてた。親父がどういう
つもりだったのか今となってはもうわからないけど、とにかく俺のせいでアイツの世界が壊れ
たことは確かなんだ。俺が冬吾から奪ったものは多いと思う。アイツの気がそれだけで済むな
ら、今すぐにでも頭首の座を譲ってやってもいい。その後破産するも何もアイツ自身のせいだ
から、それこそ俺には関係ない…………でも、今回の件はそんなんじゃなくて」


乙姫は安曇の手からタオルを奪い取り、今度こそ気合いを入れて起き上がった。
痛みなど、とうに忘れていた。


「信じられるか?冬吾の奴、俺に暴言を叩き付けておきながら、自分でも無意識の内に縋って
るんだ。あの冬吾がだぞ?我侭で、自分勝手で、人を蹴落として生きることになんの疑問も持
たないような人間が!」


乙姫の話を黙って聞いていた安曇は、同色の髪から覗く瞳を細めた。


「…………だから許すのですか?」


遠回しの抗議に、乙姫は安曇の胸倉を勢い良く掴んだ。


「じゃあ俺はどうすればいいんだよ!?痛かった!苦しかった!それに何より怖くて!怖くて、
怖くて、怖くてっ!!」


またしても、腫れた目から涙が流れ出る。
相手の痛みも少しわかってしまったから、余計に。


「アイツを罰しはしない!でも笑って許せる程聖人君子でもないっ!何を憎めばいいのか、そ
もそも憎むべきなのか、そういうのが全部わからなくなったんだ!!」


そう叫んで、乙姫は安曇の胸を叩いた。
皮膚が張り裂けてしまうのではないかと危惧する程強く握り締められた拳が、何度も何度も繰
り返し、安曇を攻める。
安曇は何も言うことができず、ただ黙って乙姫の肩に手を乗せた。


「御子…………」

「…………なぁ、俺はどうすればいい?どうすればよかったんだ?なぁ、答えろよ安曇!!」


ほぼ条件反射に近い状態で、安曇は乙姫の華奢な肩を抱き込んだ。


「差し出たことを申しました。もう結構です、御子」


安曇の言葉に、乙姫は大袈裟に肩を揺らした。


「酷なことを言うようですが、犬にでも噛まれたと思ってお忘れ下さい」

「忘、れ…………?」

「えぇ、全てお忘れ下さい」


恐る恐るといった体で、乙姫は涙で濡れた瞳で安曇を見る。
見る者全てを魅了する神秘的な瞳は、儚げに揺れていた。
忘却の彼方に押しやっていいと言うのか。
全容の知れない、狂気を孕んだ一杯一杯の冬吾の本音を。
その手段と行為は褒められるものではなかったが、あのプライドの高い男が初めてぶつけてき
た胸の内を。
…………全て?
仰いだ安曇の顔は、何か重大な決断を下したように、一つの確たる意志を宿していた。


「御子が望むなら、どんなことでもしてみせましょう。あなたのためだけに、私はここのいる
のですから…………何かご要望はございますか?」


乙姫は微かに嗚咽を洩らしながら、数回、瞬きを繰り返した。
よくよく考えると、不思議な男である。
乙姫が頭首になってからというもの、いつもこうして付き従っているが、それ以前の乙姫との
付き合いは皆無と言っても過言ではない。
前頭首の付き人で、乙姫が生まれる前年に本家に入ったと誰かから聞いた。
今の外見年齢は二十代後半だが、不思議なことに、その当時からまったく歳を重ねている気配
を見せないのだという。
その過程を実際に目にしていないのだからどうとも言えないが、乙姫の年齢を考慮すると、少
なくとも一般常識に当て嵌めればありえはしない。
外見内面共に世間に受けが良い好青年然としているものの、今まで乙姫が出遭ったどの人間と
も違う異質な雰囲気を持っている。
そんな得体の知れない男が、なんの思い入れもないはずの子供にここまで尽くすことが、乙姫
には到底信じられなかった。


「…………要、望?」

「はい、なんなりと」


乙姫は力なく笑った。
言っては悪いが、一番の願いなど安曇ごときに叶えられるものではない。
とうに諦めたそれを未だに欲してしまうのは愚かなことだと、そんなこと自分でもわかっては
いるけれど。
もし万が一それが叶うなら、どうしても取り戻したいものがある。


「…………家…………たい」


聞き取るには小さすぎる声。
安曇は、真摯な態度で乙姫の声に耳を傾けた。


「俺、本家を出たい!こんなことがあったからとか、頭首の座が嫌だからとか、そんな理由じ
ゃなくて…………ただ、本来自分がいるべき場所に帰りたいんだけなんだよっ!!」


安曇は目を細めた。


「…………片瀬の家に?」

「ここを出られるなら、どこへでも」

「その程度のことなら容易いことです」


口元に刻まれた深い笑みが、信じられなかった。
乙姫が何度脱走しようとしても無理だったというのに、目の前の男はそれを『容易いこと』と
言った。
あっさりと、『容易いこと』だと。
乙姫の顔に生気が戻る。


「…………本当か?」

「けして嘘は申しません。御子から切り出して頂けて、むしろ私としては好都合です」

「え?」


感極まったかのように、安曇が乙姫の手の甲に額を押し付ける。
そう。
それはまるで、騎士の礼のようだった。


「この時をどんなに待ち侘びたことか…………。宇都木様との誓約の下、あなたを彼の地へと
ご案内致します」


安曇が言い終えたと同時に、尋常ではない光の濁流に襲われた。
咄嗟に目を庇った気がするが、定かではない。
ただ、抗いようのない非物質的な衝撃に飲み込まれ、意識が遠退いたのはわかる。
意識の片隅で、美しい誰かが手を差し出して笑った気がした。




『よぅ帰ったの、私の姫神子…………』








その後の記憶は、ない。


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